「マグダラのマリアによる福音書」を読み終えました(^^)
様々な意見があるのは承知の上で・・自分としては、やはりキリストとマリアは「ツインフレーム」なのではないかな・・と思っています。
「天界における神の王国が光、平安、知識、愛、そして生命」であり、一方下界は「暗闇、欲望、傲慢、無知、嫉妬、そして、死への激情」・・キリストの時代にすでに、今我々が直面している「光と闇」の構造があったということなんですね。
「闇」・・この時代にすでに蔓延していた「権力が法と裁きの形で行使されていた」ことへのobjection、真っ向から立ち向かったのがキリストであり、彼の「女性性の片割れ」であるマリアなのだと思います。
ツインフレーム的な側面では、「キリストとマリアの関係が濃密であったこと」「キリストは彼女を正しく評価し、高度な教えを開けるに値する高い霊的成熟度を持っているとみなしていたこと」
「キリストが他のすべての女性たちよりも、弟子たちよりも、誰よりもマリアを深く愛し、彼女にしばしば接吻したこと」「マリアは卓越した弟子であり、キリストの伴侶・同伴者と呼ばれたこと」
これらのことからも、少なくとも、キリストにとってマリアが特別な人であることは間違いないと思います。キリストの女性性の片割れとして、彼女こそ正当な継承者・・ダ・ヴィンチコード的な物語は「全くの架空」とは言えないのでは、と思いました。
つまり、一言で言うと・・キリストはマリアであり、マリアはキリスト・・要するにツイン・フレームということです。2人が交わり一つになった瞬間、本当に完全な「愛」の力が地球上に広がったのでは、と思いました。
復活したキリストに会ったマリアが全く動揺しなかったことについて、キリストは「私を見て動揺しないとは、あなたは何とすばらしい」と語ったとのことです。この「あなたは何とすばらしい」のフレーズが今、頭から離れず「ぐるぐる」しています。
それは、このフレーズがツインフレームがお互いに、相手に向かっていつも思っている・話していることと重なるから、なのです。自分もいつもいつも、相手のことを「何て美しいんだろう」とか「何て素敵なんだろう」とか(笑)思っていますので・・
キリストとマリアも、お互いに「何てあなたは素晴らしいの!」と言い合っていたのかなぁ・・と想像してしまい、何だか嬉しくなってしまいました(^o^)
そして「結び」として大切なことをメモしておきたいと思います。「罪とは」何か?
罪とは、「姦通と同様、罪は、交わるべきでないものとの結合」つまり、「物質的本性と霊的本性との結合」のこと。「物質界への執着は、自分自身の霊的本性に反する不法な交わりである」
物質界への執着から離れることは、現在でいうところのアセンションにつながりますよね。アセンションによって本来の自分の霊的本性とつながること・・これって今我々が目指している方向「そのもの」ではないかと思うのです。
キリストの時代も今も、やはり目指すところは同じだったのね・・と感じる瞬間でした。スピリチュアル冥利に尽きます(笑)・・って、ちょっとヘンな表現かも!!
もう一つの「解釈」として、「交わるべきでないものとの結合」「姦通と同様」という言葉から・・まぁ「姦通」そのものなのですが(笑)・・「パートナー以外の人とのセックスがなぜいけないのか」ということの理由・説明になっていると感じました。
ツインフレームと再開した人は、自分の片割れ以外の人とセックスしようとは思わないのでは、と思います。でも、「一般的には」そうではないのもまた事実なのでしょう。
スピリチュアルな人たち以外にとっては、多分理解し難い(笑)この「固いw」罪の解釈・・ではありますが、人生のどこかで気付き、1人でも多くの人が光の側にきてくれたらいいな、と思いました。
「交わるべきでないものとの結合」が罪ならば、その逆「交わるべきものとの結合」は神聖なものになるはずです。
だからこそ、tantraに代表されるツインフレーム同士の交わりや愛のエネルギー交換が凄まじいパワーを放ち、周囲に愛を広げることに繋がるのだと思います。
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