念願の、川添愛さんの著書「数の女王」をようやく読むことができました(^^) 素晴らしいファンタジー小説!! 一気に読み終えました。ハリー・ポッターシリーズなどお好きな方に、特におすすめしたいです。
それにしても、川添さんの何と才能豊かなことか! 経歴を拝見した限りでは文系の方だと思うのですが、見事に数学や数の持つ不思議な世界を表現していらっしゃるのです。
数学的なことに関する助言を、複数の大学の専門家である教授たちから受けたとのことですが、それにしても素晴らしい・・。自分は完全文系の人間でして(^^;)、とてもとても川添さんのように「数の持つ複雑な世界を理解して、表現する」ことは無理、と断言できます。
だからこそ、川添さんの豊かな才能と素晴らしさがよく分かります。自分のような完全文系人間(笑)でさえも、(完全に理解するのは無理としてもw)数の持つ神秘性には心惹かれるものがあり、ストーリーも素敵で大変楽しむことが出来ました。
そしてもう一つ・・川添さんもライトワーカーなのでは・・と強く感じる個所があちらこちらに散りばめられています。スピリチャアル的な側面でも感銘を受ける場面が多くありました。
許すこと
生きていると、時々「怒り」を感じることが誰でもありますよね。この物語ではかなり過酷な境遇の下で「怒り」が高じて登場人物が相手に「復讐」したいと感じる様々な場面が描かれています。
しかし、 自分に対して殺意を持って様々な攻撃を仕掛けてくる相手に対して、「神々の意思を体現する使命を持つ」 とされる楽園の長(という登場人物)は、相手への復讐をせず、淡々と相手からの攻撃を対処することに終始しています。
そのような「楽園の長」の行動を見て主人公は、恐らく誰もが感じるであろう、「何故、やり返さないのか」という疑問を持ちます。
このことに対して、「楽園の長」の回答は以下の通りでした。
そういう人に傷つけられたとき、その相手を許す必要はない。自分が相手を憎む気持ちを否定する必要もない。でも、考えなければならないのは、「自分は何をするのか」ということ。
・・もちろんやり返すのも一つの選択肢。でも、そうしないという選択肢もある。・・自分が何をするのかを選ぶとき、私は自由なのだということ。
自由だから、私はそのときの感情に流されて姉に仕返しをするのではなく、神々の意思に従う者として「他人を傷つけない」という掟を守る方を選んでいるの。
そのように話す「楽園の長」に対して、主人公は「自分にはとても出来そうにない」と思います。しかし、「あらゆるときにやり返さない、ということを選ぶのではなく、まずは目の前のことについて、そうするようにしてみるのは?」という助言を受けます。
(難しいと思ったときは) 「今このとき、この状況に対して」自分は何をするのかを考えればいい。・・なるほど、「今、このとき」。確かに、そういう特定の状況なら、自分にも長にように行動できるときがあるかもしれない。
これらの、主人公と「楽園の長」との会話ややり取りの中にも、数々のスピリチュアル的な考えが読み取れますよね。怒りを感じても、その後の行動は選ぶことができる・・そう、波動を下げないように私たちは自分の行動をいつも「選ぶ」ことが出来るのです。
行動だけでなく、「怒り」を感じる心も同じ。いつまでも「怒り」に囚われているのか、それともその気持ちを出来るだけ早く手放して、ポジティブな感情に気持ちを戻すのか。
全て、自分の「選択」に委ねられてていることです。
それから、「今、このとき」に気持ちを向けること。まさに「今、ここ」に集中する気持ちの持ち方ですね。そうすることで、本当の自分にアクセスすることができるはず。
アセンション
それから、もう一つとても印象に残ったのは、亡くなった人が行く先に見える「光」について描かれていた場面でした。
この空間の向こうに、明らかに存在している何かがあった。それは、光。トライアの体は、そこへ向かって運ばれていく。光と闇とが溶け合う地点に至ったとき、トライアは確信した。この光が、すべての存在の源。
すべてがここから生まれ、ここへ帰って行く。物体、動物、植物、妖精、人間、そして不老・不滅の神々さえも。光の中に、トライアははっきりと見た。限りなく広大で、豊かな場所。そこに暮らす、大勢の者たち。
そこに存在するものは、別個に「在る」ように見えるが、同時に「本質的な区別がない」ことも明らかだった。つまりここにあるすべてが、この光そのものと「同じ」なのだ。
・・なんという、素晴らしい場所。そして悟る。これこそが、不老神、不滅神のさらに上、あらゆる存在の根源であり、頂点でもある「唯一かつ最高の神」なのだと。すなわち、「あらゆるものを生み出す母なる数、数の女王」。そして思う。人間としての生を終えた自分も、ここに戻り、再び「最高神」と一致するのだ、と。
エイブラハムなどのスピリチュアル・マスターたちの本を読むと、我々は元々「神」である、という文によく出合います。正直「えー、恐れ多い」と思いますが、きっと元々いた場所では、誰もがそういう性質を持っていたのかもしれません。
私たちは全員、地球に来るときに「記憶を捨てて」生まれてきた、という話をよく伺います。元々はソースに繋がっていた「本当の自分」をただ「忘れているだけ」というふうに表現されることが多いようです。
そして、その「光」の中に入るためには、三次元で持っていた全てを手放すことが必要になります。この物語の中では「運命数」、我々の身体など、全ては三次元における「仮の姿」。
死ぬことは、より大きな視点で見れば「唯一の最高神との同化」であり救いでもある。その救いを得るためには、自分の中にあるさまざまなものを捨てなければならない。
様々なものとは、 例えば、自分は特別な存在であるという意識、財産、美、若さ、身体など、執着しているもの全て。・・登場人物の一人である「王妃」は、そのことを受け入れることができないために、光に入ることができません。
そして、自分自身で自分を罰していることに気づかず、ずっと苦しみ続けることになります。
神々の意思
最後に、前述した「怒りの後の行動」にも繋がることなのですが、とても救われる気持ちになったのは「神々の意思に従う」ことが大切、ということでした。
どんなにこの世で傍若無人、冷酷・残酷なことをして他者からの「怒り」をかう人がいても、我々人間がその人を「どうにかしよう」と思うよりも、むしろ手放して「神の意思」に委ねるのが最も適切である、ということです。
その「神々の意思」が発動するとき・・どんな悪人も、ひとたまりもなく滅びます。なので、我々人間はとにかく「今」に気持ちを向けて、自分の波動を下げないようにすることがやはり大切なのでは、と思いました。
「祝福と呪詛は表裏一体」、という言葉も印象に残りました。一見「祝福」と思うことも、受け取り手の今後の行動によっては「呪詛」になります。それが「神々の意思」なのです。逆に一見「呪詛」にみえることも、その後の行動によって「祝福」になるのです。
選ぶのは自分。私たちは自分の責任で行動を「選ぶ」ことができます。全ては自分次第、なのですね。
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