解脱って… なんだかすごいタイトルですね(笑)
言うまでもないことですが、もちろん自分は「解脱」など経験しておりませんw。
ただ、これまで自分に起こった出来事や人生の流れを振り返ってみて、今、自分はなんとなく「解脱したいな〜」という希望を持っているのでは、、、とは感じています。
そもそも「解脱」にはどのような意味があるのでしょうか?
今回は、まず「解脱」の大まかな意味をおさえてから、「解脱」を目指すにはどのような生活?を心掛けると良いのか、について書いてみたいと思います。
解脱とは①
インド哲学・ヴェーダ聖典などでは、我々の魂は肉体が滅んだ(死んだ)後も消滅することはなく、生まれ変わる…といういわゆる「輪廻転生」の世界観が示されています。
スピリチュアリズム(霊的真実)でもほぼ同じことが(シルバーバーチによって)述べれていますし、ニューエイジ・スピリチュアルにおいても、その点は一致しているのではないかと思います。
まぁ、ニューエイジの場合はそれが「前世」というか…宇宙のどこかの惑星から来た、などの設定だったりしますが(笑)
いずれにしても、我々の魂は延々と転生を繰り返していく…というのがデフォルトの設定になっています。
なので、やがて「いやいや、もう結構。いい加減この繰り返しに終止符を打ちたいわ」と思う魂が出てきても不思議ではないでしょう。
でも、いくら魂がそのように思ったところで、そう簡単にこの転生のサイクルから抜け出すことはできません。相応の覚悟と勉強や訓練・修行が必要になります。
こういった「解脱を目指して一生懸命勉強する、努力する」ということを、サンスクリット語で「プルシャルタ」と表現するそうです。
※注意※ サンスクリット語は、一つの言葉に対してたくさんの意味があることが多いため、「プルシャルタ」にも他の意味がきっとあるかと思います。
私たちの人生の大まかなストーリーは、「プラーラブダ・カルマ」と呼ばれるいわば「運命」によってある程度決められています。
例えば、いつ生まれてくるのか。そしていつ結婚して、子どもが生まれるのか。最後に、いつ死んでいくのか。…といったことです。
このような内容に対しては、自由意志では立ち向かうことができません。しかし、私たちには「プルシャルタ」があります。
(…と、先日スピリチュアル・グルとも言える先生…インドの方です…から教えていただきました!!)
このまま何も考えずに、ただ「のんべんだらりと」(笑)生活していけば、大きな悪いこと(アダルマなこと)さえしないように気をつければ、次の転生先でも今生に準じた「まぁ生活に困らない程度の人生」は送れるかもしれません。
でも、「もうやだっ」(笑) 二度と人間界・物質界なんかに戻ってきたくないわ〜という気持ちが高まっているのであれば、解脱を目指して行う最高の努力(プルシャルタ)が必要です。
幸運にも、努力(プルシャルタ)が実った人に限り、転生を免れてそのままブラフマンのところに行ける(解脱)、というご褒美を受け取ることができるそうです。
解脱とは②
これはまさに「選ばれし者」限定のお話、になります。
主に、インドとかチベットの高僧の方々…ご本人は何も仰らないのでしょうが、ほぼ確実に「解脱」していると思われます。
瞑想中に床から浮く、とか。…photoshopped! (笑)ではありませんよ…オカルト!?みたいな話で信じられないかもしれませんが、割と「普通に」起こる現象みたいです。
ただ、そのような現象が起こるくらいの、真に高次の方々は、絶対にそのことを自慢げに、他者に話すことはありません。 ← これ、何気にものすごく大事!! なので強調しておきたいです。
なぜなら、「人に話すようなことではない」から。
さらに、「人に話した途端に、今までの修行は台無し」になって「(修行する前の状態)振り出しに戻る」そうです。邪念が入ってくる、ということなのでしょうか。
なので、くれぐれも「解脱した・悟った」と言う人・そういう本を出す人や、「自分にはスピリチュアルな力がある」「ヒーリングできる」などとネットで拡散してお金を取ろうとする人々…にはまず「疑いの目」でよーく見極めることが必要。
できれば、最初から「関わらない」ことをおすすめしますが(^^;)
そう言った方々はもしかすると本当に、一時的には「なんらかの力」を持っていたの「かも」しれません。
しかし、そのことを公言してお金儲けの手段にしようとする・してしまった時点で既にスピリチュアル的に「アウト」な人たちです。
その時点で、そういった力は既に「消え去って」しまっているんですよね…
話がそれましたが(笑)、日常の中で瞑想にスッと入れるくらいの、「高僧レベルの方々」であれば、今生中に「解脱」することも可能なようです。
…というか、瞑想体験を通してブラフマンの世界に行ったり、こちら側に戻ってきたり、という「行き来」ができるようになり、真実の自我(アートマン)とブラフマンの同一性を体験する瞬間が訪れる(=解脱) ことになるみたいです。
これが、いわゆる「梵我一如」の体験。すなわち「悟り」であり、「解脱」なのでしょう。
※補足 高僧の方々は自らの「悟り体験」や「床から浮いた」(笑)とかはお話されないのに、なぜ「そうだ」と言える(書いた)のか。
… 実は、それら高僧のもとで修行をされていた僧侶の方からお話しを伺ったことがあります。「床から浮いていた」は、意図的ではなく本当に偶然「みてしまった」という状況だったそうです。
「悟り」については、一言で悟りと言っても、専門的には何種類かの「段階」に分けられるとのことです。あくまでも「最終的な悟りの段階を目指して」修行を続けている「途中に過ぎない」という意識を僧侶の方々は持たれているようです。
このことから(ステージを問わない)「悟り」の体験そのものは、僧侶の方々にとっては割と当たり前な体験なのかもしれない…すごすぎる(笑)…と察しました。
そして、それら(自分がどのステージにいるのか)は、「人に言ってはいけないもの」とされているとも仰っていました。
How to プルシャルタ?
いよいよ本題に入ります! プルシャルタの方向性は、ざっくりと分けて次の二つの要素に分けられます。
① ブラフマンの理論と知識を学び、智恵を確立する。
② 実践的な知識を得る、心身の浄化(実践)を行う。
順番としては、②が先にくると思います。自分の場合、これが、数年間続けている「ヨガの実践」に他ならないなぁと思いました。
元々、ヨガの最終目的は「解脱」です。
最初にこのことを習った時には「随分スケールが大きい話よね…」(笑)と思いましたが、今となっては「全てが今に繋がっている」ことをひしひしと感じています。
そもそも、世間一般の人のイメージする「ヨガ」と、我々ハタヨガ実践者が行っている「ヨガ」には、大きな乖離があります。
実践者にとっては、ヨガは「生活・生き方の全て」を意味しています。なので、
①思考 ②行動 がヨガの教えに反しないように気をつけつつ、③アーサナ(ヨガのポーズ) ④呼吸法を練習し、⑤どんなことがあっても心が乱されないよう「制御」を訓練して、⑥精神統一して集中力を養う…ことが毎日のルーティンです。
①や②の内容でも特に、「心身や身の回りの環境を清浄に保つ」ことはものすごく重要視されていて、「シャット・カルマ」(浄化法)と我々が呼んでいる一連の手続きも、毎日欠かさず行っています。
食べる物も気をつけていて、白湯を飲み「ヨガ的食事」をとることで、身体の外側だけでなく「中身」も清浄に保つように心がけます。
そしてこれら一連を終えた「後」に、ようやくメイン・イベントと言える ⑦瞑想 を行います。
行う、というか…正確には「挑戦!? してみる」ですが。「座禅を組んで目を閉じてしばらくじっとしている」だけで「瞑想」には入れません。残念ながら…
世間で言われているほど、瞑想は一般的なものとは全く思いませんし、普通の人が(ヨガの実践もなしでいきなり)できるようなものではないよなぁ、、、と感じます。
マインドフルネスとか、最近取り入れる会社が増えているようですが、仕事中に瞑想とかまず無理ですよね(笑)。ただ「瞑想として」の意義は皆無ですが、若干のストレス解消効果はあるかもしれません。
ちなみに瞑想が少し上手くいくようになると、「眠りに入る途中で、完全に眠らず意識を保ちながら、眠りの世界に入ることができる」といった、ちょっと何言ってるかよくわからない(笑)状態になります。
でも、ほとんどの場合そういう状態を継続するのは難しくて、特に瞑想初心者は「完全に寝落ち」してしまうでしょう…それほど瞑想って難しいものなので、スッと瞑想状態に入れる僧侶の方々がいかに偉大か、お分かりいただけるのではないかと思います。
こんな風に毎日ヨガ実践を繰り返していると、次第に心と身体が浄化されてきて、悟りを得るための「最低限の準備」は整うようです。
そして、次のステップが①。ブラフマンの理論と知識を学ぶ、に進んでいきます。
これは「推測」なのですが、ヨガ実践で心身の準備が整い始めた頃にようやく、これらを学ぶ機会が訪れる…という流れになっているのではないかと思いました。
自分の場合は、ヨガ実践と並行してインドの二大叙事詩と言われる「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」を読み、最近はインド占星術などにも興味を持ち、より根源的なこと…無誤謬な聖典と言われているヴェーダをもっと知りたい、と思うに至りました。
そこで、まずは「インド哲学に関する本を」と思い数冊読み始めまたものの、やはり難しい(泣)…どうやら「独学」で学ぶには、限界があるようです。
そこで「学べるところ」を探してみたところ、なんと、見つかりました!! そして前述した(スピリチュアルグルとも呼べると思います)先生の講義を受けることができるようになった…という経緯です。
長くなりましたので、また次回に「続き」(プルシャルタ)を書きたいと思います。
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