「解脱」への道 その5

インド哲学 ウパニシャッドほか
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前回の続き、という訳ではないのですが…

/https://meurydice.com/how-to-attain-moksha4/

ヴェーダの先生の元で「バガヴァッド・ギーター」を学んでいるときに、たくさんの貴重なことを教えていただきましたので、その一部を備忘録として残したいと思います。

輪廻から離脱するために不可欠な要素

「解脱」とは、生と死の繰り返しから解放されることです。

現世がとてつもなく楽しく、充実している人であれば(…ある意味、うらやましいです(笑) )、そもそも「解脱」なんて考えもしないでしょうし、興味を持たないでしょう。

恐らく「死」についても望んでいないでしょうし、次の世においてもまた肉体を得て、楽しい人生を送りたいなぁ、と願っていることでしょう。

その対極にいる層…自分のような(笑)…は、そういった方々とは真逆の考えを持つようになります。

もちろん、「解脱」を願っているくらいですから「今世で身に起こることは全てカルマの結果であり、仕方ないこと」と理解していますし、受け入れてもいます。

それでも、やはり辛いものは辛い(笑)。まだ肉体を保持している状態ですので。

だからこそ、ヴェーダ聖典を学びたいとか、早く肉体から解放されたいと願う…という発想に至るのでしょう。

つまり、自分のような「解脱を目指したいと考えている人々」にとって一番大切なことは、ヴェーダ聖典を学ぶことであり、そこから智慧と知識を得て、穏やかな気持ちで余生を過ごすこと。

ただ「それだけ」です。

ヴェーダ聖典によれば、生と死の繰り返しから解放されるために、不可欠なことの一つとして

「結果を期待せずに、行為を行う」

ということが挙げられています。

例えば、「お給料をもらうために仕事をする」「親からご褒美をもらえるので勉強を頑張る」など、普通に人間がモチベーションを保つためには、何らかの「報酬」や「見返り」が必要ですよね。

全くお金をもらえないのに、その会社に所属して仕事を続ける人はいないと思います(笑) 万一、所属している会社が倒産してしまったら、そのまま退職…となるでしょう。

カルマ・ヨーガから始めなさい

前述の例のような、極めて一般的・日常的に我々が抱く「動機」からは少し離れた立場で、「結果を期待せずに行為を行う」ことは、カルマ・ヨーガと呼ばれています。

肉体を持って、今世で生活を続けている限り、我々は常に何らかの「行為」をしています。

その行為の内容や質によって、それは新たなカルマ(karmaphalam)を生み出します。ダルマ的行為には良い結果を、アダルマ的行為には悪い結果を、というように。

では、良い結果を望むが故に、我々はダルマ的行為を行うのでしょうか?

必ずしもそれだけではない、ですよね。

 目の前に「困っている人」がいる。

 あ、困ってるんだ。何か手助けできることはあるかな?

 大丈夫ですか? と声をかけてみた。

 話を聞いて、自分にできることを行った。 

 相手が喜んでくれた。助かった、ありがとうと言ってもらった。

…といった「日常の一コマ、あるある」劇場。

これ、別に何か期待して行為を行った、ということではないと思うんです。

逆に、「助けてやったんだから、何かよこせ」なんていう人がいたら、めちゃ怖いですよね(笑)

ここではイメージしやすい例を挙げましたが、カルマ・ヨーガというのは「あらゆること」について、こんな感じ・気持ちで行うこと。

これは、結果を全て放棄すること(放擲・renunciation) とも表現されます。

「自分には時間と体力があるから、(自分の敷地内だけでなく)周辺の掃除も一緒にしておこう」とか。

「そうすることよって、何だか気持ち・心が清らかになり満たされた感じがする」とか。

「自分だけでなく、みんなのために行為を行いたい」

…こういった純粋な気持ちで行う行為が、カルマ・ヨーガになります。

そして聖典には、このカルマ・ヨーガを行えば行うほど、心の平安を得ることができると書かれています。

そのカルマ・ヨーガの積み重ねにより、やがては「その次のステップ」とも言える「瞑想」(dhyanayoga)の段階へと上がっていけるようになる、とされています。

これが本項の表題の意味です。まずは「カルマ・ヨーガから始めなさい」「結果を期待しないことからトライしなさい」が、聖典による教えとなっています。

瞑想・ディヤーナ・ヨーガ(dhyanayoga)への「階段」

この「階段」というのは、まさにカルマ・ヨーガのことを示しています。

これはどちらかが「高次のヨーガ」で、もう一方が「低次のヨーガ」ということでは全くなく、進むべき道筋・順番を示している、ということです。

ヴェーダ聖典を全く知らず・学ばず、サーダナ(ヨガなどの修行、実践)を行ったこともない人が、いきなり「瞑想」をしようとしてもまず不可能…というのは、誰でも簡単に想像できることかと思います。

また、修行といっても単に「1日セミナー受けた」とか、短時間で達成できる、ということでもありません。

聖典を学び、カルマ・ヨーガを行い、サーダナを毎日ひたすら続ける…

このような地味で実直な行いを続けていくことは、決して簡単なことではないと思います。

加えて「その結果を期待しない」ことも予め理解の上、で行っています。何と言っても、これら全てがカルマ・ヨーガですから(笑)。

期待はしていません。でも…

聖典にこれが「梯子」だよ、って書いてあるんです…

しつこいようですが(笑)、たとえ期待はしていなくても、「何だか嬉しい…」と思うくらいは、許してもらえるものでしょうか?

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