「解脱」への道 その3

インド哲学 ウパニシャッドほか
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前回の続きです。

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ウパニシャッドに書かれていることを引用しながら、引き続き「解脱」について考えていきたいと思います。

なお以下にクオーテーションにて「引用」している部分は、岩本 裕氏 編訳の「【原典訳】ウパニシャッド」ちくま学芸文庫 2013 から引用させていただいております。

ヴェーダとウパニシャッド

最初に、この二つの関係性について簡単に説明したいと思います。ヴェーダは、あらゆる分野の知識を網羅する、いわば「知識の百貨店」のようなものです。

ヴェーダには「リグ・ヴェーダ」「サーマ・ヴェーダ」「ヤジュル・ヴェーダ」「アタルヴァ・ヴェーダ」という4つの種類があり、編者(著者、ではない)は「ヴィヤーサ仙」とされています。

著者がいない? では誰からもたらされたものなの? という疑問が浮かびますが、与えたのはブラフマンであると考えられています。

更に、この聖典は「文字」で伝承されてきたのではなく、聖者から聖者へと口承されてきたものだそうです。しかも…驚くほど正確に伝承されてきた、と言われています。

そのため、現在文献として読むことができるヴェーダは、案外最近…でもないか(笑)…(15世紀頃?でしょうか?さまざまな説があるようです)にようやく文字化されたものであり、膨大な叡智のほんの一部と考えられているようです。

ちなみに…編者であるヴィヤーサ仙は今も生きている、と考えられているそうです。なので、ヴィヤーサ仙について何か語る時には、文法的に必ず「現在形」を使用する(過去形は使わない)、と先生から教わりました。

一方、ウパニシャッドはヴェーダの中の一領域を取り扱っていて、その領域とは「ブラフマンの理論や知識」に特化したもの、となっております。

ウパニシャッドは(実際にはもっと多かったが、確認できるものは)108 あるそうです。前述の通りヴェーダは4種類ですので、ウパニシャッドとヴェーダは1:1の関係性ではなく、1つのヴェーダに対してたくさんのウパニシャッドがあります。

例えば、次項以下で引用している引用元の「カタ・ウパニシャッド」であれば、対応するヴェーダは「ヤジュル・ヴェーダ」です。

そして、108のうち代表的・主要なものは17くらいとのことですが、何を持って「主要」とみなしたのか? …それは「注釈の有無」による、と先生から教えていただきました。

注釈, commentary, があるからこそ、内容がぐっと理解しやすくなります。だからこそ大切なのですね…注釈をつけてくれた過去の偉人・聖人たちに感謝しなければなりません!

以上のように複数・多数現存しているウパニシャッドですが、テーマや目的はどのウパニシャッドにおいても共通していて「自己の本質を知ること」となっています。

知恵を授かる準備は整っているか?

一方に精神的な幸福があり、他方に肉体的な快楽がある。両者は目的を異にするが、人間を束縛する。それらの中で、精神的な幸福を取る者は善いことがあり、肉体的な快楽を選ぶ者は人生の目的を失う。

精神的な幸福と肉体的な快楽とは、いずれも人間に近づく。賢者は両者を審かに吟味して、両者の差別を判断する。実に賢人は肉体的快楽よりも精神的な幸福を選び、愚者は心の平安よりも肉体的な快楽を選ぶ。

カタ・ウパニシャッド2-1, 2-2

カタ・ウパニシャッドの主人公は「ナチケータ」という(恐らく)12歳前後の男の子です。彼はバラモンの家系に生まれ、幼い頃からヴェーダを学ぶ環境で育ちました。

つまり、同年代の子どもたちとはかなり異なっていて、どんなに幼くてもバラモンとしての視点を忘れずに行動し、学び続けています。

今回ナチケータはある経緯※により、ヤマ神(「かみ」ではなく「しん」と音読みしてください! ヤマガミではなくヤマシン) のところに赴くことになりました。ヤマ神とは「死を司る神」です。

ある経緯…これもものすごく大事な論点なのですが、そこまで踏み込んでいるとまた話が延々長くなってしまうので、残念ながら今回は省略します(;_;)

ナチケータはヤマ神に「死について教えを授けてください」とお願いしますが、神はその問題は難しすぎる。子孫繁栄や財宝、愛欲、長寿、あらゆるものを与えるから、その問題だけは勘弁してくれ(笑)と断ろうとします。

しかしナチケータは一歩も引きません。そんな今生限りの儚いものは私には不要。どうか教えを授けてください、とヤマ神に再度お願いをします。

そのようなナチケータの姿を見て、彼の固い決意を感じたヤマ神が、ぽつり、ぽつりと話し始めたのが前述の引用部分になります。

この部分はナチケータこそ、ここで述べられている「賢者」であることをヤマ神が認めて、教えを授けようと覚悟を決めた瞬間ではないかと思いました。

このように、ヴェーダの叡智を授かるためにはナチケータのような固い決意や意志が必要であり、まさに「賢者」でなければならない。

そして、そういう心身の準備が整わない限り、ヤマ神の厳しい「審査」には絶対に通らない(教えを授かることができない)ということなのでしょう。

まず「目指すべき姿(目標)」は、「ナチケータ」ということですね!

あれ? 今回でこの一連の話は終わる予定だったのですが(^^;)…書いていると、なぜか段々と長くなってしまいます。また、次回に続きを書きたいと思います!

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