ヨガの「八支則」とスピリチュアリズム

ヨガ 瞑想
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ヨガでは、アーサナ(ヨガのポーズ)を行う前にすべきことが山のようにある、ということを以前書きました。

浄化 水の力をかりる
一般的には、ヨガと言えばアーサナ(ヨガのポーズ)のことを指しているのだと思いますが、運動的要素重視のヨガではなく伝統的なヨガでは、アーサナに入る前に行うべきことが実は山のようにあるのです。アーサナの前に行うこと…それが「浄化」で、かなり徹底して行います。アーサナに限らず「ヨガ」に含まれる内容としては、

こちらは身体面に関わることが中心となっているのですが、これ以外の要素として、ヨギー・ヨギーニとして普段の生活・行動・そして生き方そのもの、の実践において心がけることがあります。

それが、ヨガの「八支則」の一部である「ヤマ」と「ニヤマ」と呼ばれているものです。

「ヤマ」は禁戒のこと、ニヤマの「ニ」は接頭辞(笑)で否定の意味をもちますので、ヤマの逆。つまり推奨されること(勧戒)という意味になります。

禁戒の内容も勧戒の内容も、どちらも5つの項目から成り立っていて、

禁戒の内容「非暴力・不殺生」「嘘をつかないこと」「盗まないこと」「禁欲」「不貪」

勧戒の内容「清浄」「満足」「自制」「学習」「信仰」

となっています。

アーサナに入る前には身体を整える「だけ」では片手落ちで、これらの「実践」も求められているのです。スピリチュアリズムに準じて!? ヨガもなかなか要求水準が高い(笑)ことがお分かりいただけるでしょうか。。

禁戒の内容で冒頭に示されている「非暴力・不殺生」は言葉どおり、ヨギー・ヨギーニがヴィーガンである場合が多いことの、ひとつの理由となっています。

気になる「禁欲」(笑)ですが、これは必ずしも性的な行為のことだけを指している訳ではありません。この中には「無駄なエネルギーを使わないこと」という意味が含まれています。

どうでもよいことに没頭したり、拘ったり、執着したり・・それらは手放すことが求められているのです。

布団・・ではなく「不貪」(笑)。これはスピリチュアリズム的にもかなり重視される項目ではないでしょうか。必要以上のものを持つ・求める・追及することへの戒めです。

その逆とも言えるのが、勧戒のひとつ「満足」ですし、それが自然と「自制」にもつながってくるのだと思います。

スピリチュアリズムで問題とされるのが「利己主義」や「物質への過度の執着」。

私たち1人1人が、自分に本当に必要なもの「だけ」をきちんと判断することができて、自制して与えられた今の状況に満足・感謝することができれば、きっと世の中は大きく変わりますよね。

使いきれない程の財産を持っている人は、日々の暮らしにも困っている人たちに分ければいい。全然難しいことではないと思うのですが・・という意味のことを、シルバーバーチも述べていました。

自分はお金持ちではないから、関係ないわ…と思っている方!! そんなことはありません。

日本に生まれた、というだけでもかなり恵まれた環境にいることはほぼ間違いがなく・・ちなみに、部屋の中の物で「使わないけど、何となく取っておいてあるもの」はないでしょうか。

断捨離とヨガはとても相性が良いのです。

「不貪」や「満足」を実践すればするほど、どんどん断捨離が進みますし、やがてミニマリストにも辿りつくことになります。

物質への執着から解放されればされるほど、霊的成長の進み具合も速やかになるのでしょう。

・・こんなことからも、サイキック能力は少しあるのかもしれないけど霊的成長には疑問??、という霊媒師・チャネラー・スピリチュアルカウンセラーやヒーラーを名乗る人達・・彼らのお金や物に対する執着の程度を見れば「信頼するに値するかどうか」が簡単に判断できますね。(;^ω^)

勧戒の「学習」というのは、お勉強のことや頭の良しあしのことではなく(笑)、自分のことを謙虚に振り返り、素直に反省することができているか、という意味が含まれています。

「自分のことは自分が一番よく分かっている」という人ほど、実は全く自分のことが見えていない・・というのはよくあることですよね。特に仕事場で(笑)。

ひたすら「謙虚」であることを目指します。自分は謙虚、と思っている人もダメです(笑)。ひたすら、振返り・反省・見直し改善の努力。このサイクルをぐるぐる地道に進んでいくしかないのです。自分に満足せず、精進あるのみ!!

これも、スピリチュアリズムのおしえ「謙虚であることの大切さ」「(神様の)道具に徹する姿勢」という考え方と重なる部分だと思っています。

「信仰」というのは、マントラを唱えたり色々な意味があるのですが、そのうちのひとつに「大いなる存在・意識に全てを委ねる」という考えも含まれます。

拡大解釈かもしれませんが、神という唯一無二の存在、神の摂理に全てを委ねる・・という意味ではスピリチュアリズムとつながる概念ではないかと思います。

八支則について長々と書きましたが、このおしえに従って生きているヨガ修行者は元々、仮にスピリチュアリズムの知識を知らないとしても、比較的スピリチュアリズム的な生き方に沿っていると言えるのではないかと思います。

ひとつだけ足りない・・というか、ここに書かれていないことが「利他愛の実践」についてではないでしょうか。

ヨガをする人がスピリチュアリズムに出合ったことの意味はまさに、そのことにあるのではないかと感じます。

つまり、霊主肉従の実践はまぁまぁ進んでいる。さぁ次のステップは利他愛の実践だよ、というメッセージを受け取ったような気がするのです。

これまた、スペシャルに要求水準の高い「招待状」を受け取ってしまったようです(^^;)

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