今日も過去のブログ振り返りシリーズです(笑) このタイトルを見て、カルマのことを書いたのかな?と思い読み返してみました。
このときはもちろんスピリチュアリズムの知識がない状態での経験ですから、「加害者」に対する憤りの気持ちで悶々としている様子が伝わってきます。それから自分の力のなさに対する無力感、とかも。
さて、スピリチュアリズムを知った今ならこの出来事をどう感じるのかな、と少し考えてみました。
今ブログを読み返して思ったことは、「加害者に対して哀れみの気持ちを感じる」でした。
何故なら神の摂理によって「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」ことが、やがてこの方にも必ず適用されることを知っているからです。
典型的な「上には取り入る・下には威張る」タイプですので、このことだけでなく多くの同様案件が既に「山積み状態」になっていると思います。
スピリットの世界に移り、スクリーンに自分がこれまでしてきたことを映し出され、その全てを延々と見せつけられるとき・・
どれほどの後悔と苦しみが待ち受けているでしょうか。想像しただけでぞっとします。
ただ、少し同情してしまうのは、この方がそのように行動してきた理由が必ずしも本人のせい「だけ」とは言えない、と感じるからです。
多かれ少なかれ、組織で働くということはつまり「自己顕示」をバリバリして「超・利己的に」行動しなければ周りにつぶされてしまう、生き残れないというのが「資本主義」社会の宿命。
「他人の手柄とりなんて日常茶飯事」という話を以前聞いたことがあります。正直者、善人が報われることは残念ながら期待できないのが「資本主義の上に成り立つ組織」。他人を蹴落としてまでのし上がっていかないといけない世界なんですね。
出世とお金のためなら何だってする。他人のことはどうでもいい。生き残れない奴が悪い、という究極の利己的社会。
まさに、スピリチュアリズムの対極にある世界です。
仮にベーシック・インカム制度が導入されて、最低限の収入が全ての人に行き渡るようになれば、この問題は解決するでしょうか?
とても難しい問題だと思います。制度の導入だけでは片手落ちで、人々の心や生活も変わらなければならないからです。
生活に支障のない収入があれば、その範囲内でシンプルに暮らすことを心地よいと感じる心
自分にとって必要のないもの・本当に必要なものを瞬時に見分ける判断力
断捨離やミニマリストといった行動にも繋がってくる内容ではないでしょうか。鍵となるのは「物質に対する執着心を手放す」こと。
やはり霊主肉従に行きつくんだなぁ、と感じます。このような視点からも、やはりスピリチュアリズムが地球全体に行き渡ることの必要性と重要性をひしひしと感じる今日この頃・・
パンデミックによって、何となくそういう方向に向かっているような気もしています。
一見悪いことのように思えるパンデミック・・きっと、これをきっかけとして良い方向に向かうと信じたいですね!
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